昔あこがれていた職業。
お姫様(職業か?)、天文学者、先生、そしてエッセイスト(順不同)。
でもエッセイストは著名人が書くからこそ、エッセイとして成り立つのだとずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと信じてきた。
仕事をするのに資格がいらないエッセイスト。ライターの1ジャンルと言えなくもないけど、著名人でない人が書いても人の目に触れることって少ないのでは、とこれまたずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと思っていた。
しかしオンラインメディアの台頭で、こだわりあふれる文章とネタ次第では、著名人でなくてもエッセイストになれるのだと、最近考えを改め始めた。
「・・・・になるには?」シリーズの本を読み、「なる」ための順序を知らなくちゃ!と思っていた過去の私だけど、今〝物書き“の間口は広い(稼げるかどうかは別として)。
文章にしたいあふれる気持ちを「どうどう」とたしなめ、冷静に言葉を選び、明確に伝える文を起こす。
それが出来てかつ、読んでもらうためのコツを加える。
その努力はエッセイストに限らないけど、人生後半戦を迎え、死ぬ前に挑戦する意味はあるのかも…。
気負わずにそう思う。
話変わって。大学生の時、宿題となるといつも日記文学に関する論文ばかり書いてました。
日記って普通人に見せないもの。なのに文学として他人に見せる(読ませる)ものになってしまった日記文学の目指すところとか、著者の思いとか。
うろ覚えだけど、そんなことについて書いていたような記憶。
この前それを思い出して、ふと気づいた。「平安時代の女流日記作家ってブログの先取りじゃん!」と。
ブログやインターネットなんて生まれるずっと前、今から1000年以上前にあった日記文学。これってブログの始祖じゃない!?