シアトルはまだ2023年の大晦日。
今年は私の普段の年よりも色々あり、たくさんの人に支えていただいた。心から感謝。
その中の1番について、年が変わる前に気持ちを整理しておきたいことがあったので、自分よがりにここに書くことにした。
6月。父逝去。酸素吸引を始めたと聞いてから1週間での他界。
LINE電話で椅子に座っていた姿を見てまだ大丈夫と思っていたのに、
数日後に飛行機で実家に戻ったときには、酸素マスクでベッドに横たわり、声も弱々しかった。
そこから看取りまでの2日間。
何か食べさせたいともものゼリーを口に運んだら、美味しそうに食べたので、もうひとさじ余計にあげようとしたら「調子に乗るんじゃない」と消え入るような声で嗜まれた。糖尿で食事制限していたからで、この時はまだ生きるつもりも気力もあったんだよ。
意識がほとんどない時にリンゴジュースをスポンジに含ませて口に入れたら、口をすぼめて吸い付いた。最後の力を振り絞るかのように。
高村光太郎のレモン哀歌を思い出した。
最期まで耳は聞こえているというので、父が参加していた合唱団のCDを聴かせたり、楽しみにしてくれていた私の俳句を読んで聴かせてみたり、
ベッドの傍で父との思い出を家族で話し、父が好きだったモンブランを買ってきて、2ヶ月遅れで米寿のお祝いもした。
聞こえていたのかな。わかってくれていたのかな。誕生日、遅れちゃってごめんね。
痛みで反射的に起きあがってしまうほどの苦しそうな姿や、
「親父、お袋、まだいっちゃいけないのかよ」と口走ったりして、明らかに意識が朦朧としているのを目の当たりにしながら、
家で逝きたいという父の願いが叶うよう、モルヒネ投薬し痛みを散らすだけの無力感。
認知症がすでに出ていた中での出来事だったので、シアトルから飛行機に乗った時には「介護が長く重くなるかな」と覚悟していたのに、
こんな結末とは予想外。
ネガティブな言葉は聞かせないようにしていたが、「お父さんありがとう」の言葉を言ってしまうと、
父に死を自覚させるのではないかと思い、結局言えずにいたのが、今も私の心の傷。
何度となく心の中で呟いていたのを聞いてもらえたと信じるしかない。
危篤になる直前に父が息子と夫に言った「ありがとう」を私の言葉で置き換えている。
年が変わる前に言い残したことがないようにしたかった。
家族にありがとう。友達にありがとう。私の暮らしに関わってくれるみなさんにありがとう。
そして、天国の父と祖母にもありがとう。私は元気に生きています。これからも生きていきます。